どんな作品にも加藤恵=透明なカメラ=視聴者代表は存在する

 昨日、『残響のテロル』の感想を書いていたとき、というか観終わってからずっと感じていたのは登場キャラクターの三島リサが『冴えない彼女の育てかた』における加藤恵と物語上では同じように作用していた、ということです。どちらのヒロインも主人公たちの起こすことに対して何も知らない場所から冷静かつ偏見なく自らの意思(好奇心や冒険心など)に基づいて行動していく、視聴者からは一種の“透明なカメラ”として作用しているんです。

 “透明なカメラ”というのは実に重要で、それが無いということは云わばチュートリアルのないクソゲーを始めるものと同じですから感情移入が出来ません。いきなり設定を知っているものとして作品世界に放り投げられたら、その世界を無意識のうちに理解できるという才能/好みが無ければ何をしていいのかわからなくなりますし、「こいつ、何言ってんだ?」になります。最近のアニメでもそんな感じで説明を余りせず放り出された感のある作品が放送されまして、僕は途中で脱落しました。

 この“透明なカメラ”を担うのはどこにでもいそうな変哲のないキャラクターの場合が多いです。『冴えカノ』では加藤恵、『残テロ』では三島リサですし、『銀の匙 Silver Spoon』の八軒勇吾や『SHIROBAKO』の宮森あおいだってその役割を担っています。どこにでもいそうなキャラクターたちが、今までの自分とは関わりのない蚊帳の外だったものに触れていくときにはこういった役割を担うキャラクターが必要になる。これはどのアニメにも、いや、どのフィクションにも共通することだと感じました。

 話は変わりますが、ニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんの著書で、タモリさんが“透明なカメラ”である、と記されていました。タモリさんは視聴者代表としてテレビの向こう側で芸能人と相対している、という意味です。確かにその通りで、タモリさんは司会者としての自分の役割を自認してそういった行動を自発的に行っているのだと思います。そしてそのスタンスが評価されたのか『笑っていいとも!』は長寿番組になりましたし、『ミュージックステーション』も人気番組のひとつとして放送されています。

 このタモリさんと同じで、視聴者代表の役割をキャラクターが担うとその作品は感情移入しやすくなりますし、その分野(同人ゲーム制作やテロリズム、酪農、アニメ制作など)を知らなくても、同じ境遇のキャラクターとその世界を見ることが出来ます。

 『PSYCHO-PASS』で“名前のない怪物”と呼ばれていたものは、この視聴者である僕たち、作品世界に準えるなら善良な市民のことで、視聴者代表役のキャラクターこそ名前のない怪物であるのかな、と思います。その理論で言うと、視聴者代表役を担う常守朱名前のない怪物ということになります。

 ですから、結論としてはその名前のない怪物=透明なカメラ=視聴者代表が存在しない作品は感情移入が出来ない作りになってしまっているのではないでしょうか。僕が途中脱落した某作品もそうだったなぁ、と思いながら本稿はここで閉じさせていただきます。