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コトバでセカイをブチ壊せ!――『学校のカイダン』第1話

ドラマ

(注:『学校のカイダン』第1話の内容に触れています。もし未見の方は公式サイトで第1話が配信されておりますので是非ご覧ください)

脚本:吉田智子 演出:南雲聖一

 スクールカーストとは何か。クラス内ヒエラルキーとは何か。それは学生の住まう小さなセカイ=学校を支配するセカイだ。少なくともそのセカイを卒業するまでの期間はその柵からは離れられない。いくら苦しくても、辛くても、そのセカイから離れることはほぼ不可能だ。中退?そんなことは自らの負けを認めたも同然、この先生きる人生ずっとその二文字が追いかける。そんなことが出来ないから、そのセカイから飛び出す方法は一つ――自殺しか無くなる。

 そういう意味では学生が自殺するケースは全てスクールカーストが為したものだ。いじめ、差別、冷たい空気、暴力、精神的苦痛、見えない空気。色々なものに縛られて雁字搦めの小さなセカイで生活する少年少女たちは親にも友達にも何も相談が出来ず、そのままこの世から消えざるを得なくなる。

 本作の主人公・春菜ツバメもその一歩手前、スクールカーストによって精神を蝕まれている少女だ。もちろん、スクールカーストに立ち向かう勇気・根性・精神力はもう持ち合わせていない。だから、運命を天に任せて、ただ荒波に身を預けている状態だった。しかし、雫井慧という謎の少年によって自らがそのセカイに革命をもたらすこととなる。覚悟を持って、同じ境遇だが今セカイから消されようとしている少年・油森哲夫を救おうとする。しかし、その道のりは平たんではない。今までスクールカーストに抗おうとした試しがあっただろうか?抗ったら次に消されるのは自分じゃないのか?自分が標的になりたくない、だから自分は抗おうとしない。つまり行動を起こさない。はい、終了。それで良いのか?とツバメは自問自答し、「退学届」というカクゴを持って自らのコトバでセカイに風穴を開けようとする。結果的に、油森哲夫を救うが、セカイの空気を変えることには成功しない、という展開で第1話は閉じた。

 それもそのはずだ、1回の演説で180度セカイの空気が変わった試しがあっただろうか?いや、ない。リンカーンキング牧師も誰でもそんなことは成しえなかった。徐々に徐々に空気を変えて、最終的に翻したに過ぎないのだ。

 本作で描かれるセカイはアニメ的セリフなど文脈は所謂オタク的文化寄りのものだ。しかし、それはそのセカイをドラマというリアルな世界では未だ展開されていないからそちらの文脈としか思えないだけではないだろうか。アニメでは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』や『AURA ~魔竜院光牙最後の戦い~』、現在放送中の『暗殺教室』などでスクールカーストについて描いてきた。だがドラマではどうだろう。本作と同じく土曜9時枠で放送された『野ブタをプロデュース。』くらいではないだろうか?

 その理由は単純に「感情移入出来ないから」だろう。当たり前だ、土曜9時のテレビドラマを観る層は俳優女優目当てのカースト上位の皆様方が多い。そんな皆様方にはカースト下位の僕たちの気持ちなんて理解できない、理解できるのは作中で描かれるプラチナ8の皆様方の方だ、そうだ違うか!?

 だが、本作には『野ブタ。』とは全く違う点がある。それはカースト上位の皆様方が下位の僕たちに肩入れしようとしないことだ。『野ブタ。』ではカースト上位に位置する二人――桐谷修二と草野彰がカースト下位に位置する小谷信子をプロデュースし居場所を確立させようとする。しかし本作はツバメが慧に助けられながらも自らのコトバだけで風穴を開こうとする。

 そういった観点ではこの枠でスクールカーストカースト下位の立場から描くのは初めてだろう。それ故に本作は従来の視聴層からは理解がされないだろうし、感情移入は出来ない、なぜならこんな経験をした試しが無いのだから。もしカースト上位にいても共感が出来るという人がいたらそれは覚悟が無くカースト上位の皆様方と同じ表情を浮かべいじめに加担しているのっぺらぼうだ。そこに自分はない。何者だお前は。自我を出せ!ツバメのように立ち上がれ!

 さぁ、コトバでセカイを革命する瞬間が来た。僕らのコトバは、武器だ。